↑試し読みできます。(画像クリック)
世田介に言ってしまった言葉を後悔する八虎が、世田介のもとへ行くところから。そこで出た言葉は、絵を書くことは好きか、という問いでした。
9巻の終わりで、才能と努力について描かれましたが、これは昔からずっと思っていたテーマで、こうやって作品の中で取り上げてくれるのは嬉しい。やっぱり、みんな思ってるんだな、とわかったことが嬉しい。
「努力の天才」と言う言葉ほど、人を傷つけるものはないよな、というのが今回の肝。
「天才」とか「才能」とか、そういう言葉を人に使うというのは、そうじゃない人が人の気も知らずに羨ましがって言う無責任なことだとずっと思っていました。呼ばれる側からしたら、「いやいやみんなより努力した結果ですから」って感じるでしょう。
確かに事実として、継続して出来ることや諦めずに何度もチャレンジする精神力なんかは才能の一つだとは思います。ただ、それが簡単なのか辛いのか頑張っているのか、それは本人にしかわかりません。ですが「天才」や「才能」という言葉は比較的、「苦労しなくても出来る」というニュアンスが含まれている気がして、性格的にネガティブな人は特に気になるでしょうね。逆に自尊心が高すぎる人なんかは、天才と言われることに喜びを感じるかもしれませんが。
いずれにせよ、人それぞれですが「天才」や「才能」という言葉は必ずしも褒め言葉ではない、ということをこの9巻と10巻で知らしめてくれたのは、少し胸がすく思いでした。
そしてこの巻のメインは世田介。
「絵の才能がある」のだから他は何にもなくたって大丈夫、と言う世田介の母親。そう言って身の回りのことは全て世話をしてきた母親でしたが、全く世田介のことを見ていませんでした。
典型的な支配です。怪しい雰囲気をずっと出していた世田介の母ですが、この巻で一気に化けの皮が剥がれます。これは世田介も不信になりますよ。
世田介自身は、自分のやりたいこと、出来ることが、周りからの期待や押しつけにマッチせず、葛藤が心を占めストレスが溜まっていきます。そんな中、とある施設の女の子と飼育小屋のウサギに出会います。
友達と思って描いたウサギの絵。しかしその女の子からは「餌を上げお世話をする相手は友達ではない」と言われてしまい、何かに気付くのでした。
そしてそのウサギの絵を偶然八虎が目にして、「ウサギが世田介のことを好きなことがわかる」と言うシーン。
これは八虎が渋谷の絵を描いたときに、感じたこととリンクしていますね。世田介は初めて「絵が描けてよかった」と思い、感極まって泣いてしまう。絵で会話が出来た、ということ。コミュニケーションが苦手で上手く伝えられないことが、絵を通して伝わる。そんな素敵なシーン。良いですねえ…。
そして一年生最後の課題、自主制作。期間は二ヶ月。各々が時間をかけて取り組む中、八虎は迷走中。「それは絵画でやる意味はあるのか」という教授の言葉が頭から離れない八虎です。
しかし、世田介と渋谷に出かけて訪れた展示会で、絵画に対して改めて思いを巡らし、そして、世田介と遊びに出掛けたことで、自分は人に興味があるということに気付けました。
また何か言われるかもしれない、それでも、絵を描く衝動が止められない。
藝大に入ってからどことなく絵に対して前向きになれなかった八虎が、ようやくポジティブに動き出せた瞬間。感動です。
そして始まった自主制作の公開講評。教授に加え、著名人やプロの画家も訪れるということで緊張感が漂います。
八虎の絵は、未熟ながらも八虎の気持ちが素直に表現できていて、まだまだだと理解しながらも、背筋を伸ばして講評を聞く八虎の目は前を向いていました。この一年で初めて、作品を堂々と完成まで持って行った、それだけで十分な成果でした。しかしまあ槻木先生があまりにキツすぎますねえ。
教授と言えば猫屋敷先生もちょっとクレイジー。特に世田介に関してはパワハラチック。世田介の自主制作は、世田介の葛藤を表したウサギの絵。女の子と出会ったことで得た気付きを絵にしていましたが、猫屋敷にはまるで響かず。
猫屋敷は世田介の才能に期待をし、世田介は自分の気持ちを表現しています。
頭が良いのだから誰にも描けないような素晴らしい作品を作れるはず、と思う猫屋敷。対して、頭を使って考えた作品ではなく自分の気持ちを形にしたいだけだという世田介。
このすれ違いがピリピリして嫌ですが、これは世田介に分がありますよね。藝大はアート製造工場じゃないんですから。
それでも大きな前進を果たした世田介。初めは本当に掴み所のない失礼なやつだと思っていましたが、ここまで掘り下げてくれて、そして少し素直になって…10巻まで読んでわかる、とても良いキャラでしたね。
最後は金欠の八虎が飛びついたお絵かき教室に佐伯先生が…というところで終わり。久しぶりの登場。楽しみ。大葉先生も見たいな~。